昭和五十六年十月二日 朝の御理解


御理解第二節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。


 神徳を受けるには、ままよという心を出せとおっしゃる。ままよとは死んでもままよの事ぞと。そういういわゆる神様を信じきらせてもらうところから、いわばままよという心も出てくる訳ですけれども、信心すれば誰でもお徳は受けられると、ここにはあります。信心とは、そういう神様に一切をまかせきれれる心、そういう信心だと。信心とは、信ずる心とある。信ずるというたら、もうそこまでも命までもお任せ出来れる、そういう信心になりゃ、確かに御神徳が受けられるだろうと思いますよね。
 今日、私は、大体教典のここの所を頂いた。何にも書いてない白紙の所を頂いたんです。それで、その今日は白紙、何にもないという所から、この御理解二節を頂いておる訳なんですけれども、なかなか白紙になるという事も難しいです。ね、いろんな問題がこんがらがってまいります。解決せにゃん時にゃ、兎に角白紙で話し合いましょうといったような事を申しますね。いろんな事は言わずに、兎に角お互いが白紙になってと言うた時に、初めて良い思案も浮いてくると言う訳なんです。ね、信心もやっぱりそうです。先ず、白紙になる事です。ね、少しばかりの言うならば、学問とか常識とか、ね、先ず第一に観念を取らなければいけません。私共の少しばかりの勉強で、その言わば、学が身を喰うというようなお言葉がありますよね。教祖様の御教えの中に。此方は無学でも人が助かっておると、ね。学問をしていけんと言うのじゃないけれども、その学問とても学問に基づく信心ではなくて、先ずは御神徳を頂く事の為に白紙にする。神様に一辺お返しをする。
 夕べのお月次祭に全身全霊を神様へ、こう捧げるとこう申しますかね。と言うような事はやはり白紙と言う事だと思うんですよね。そこから頂くところの信心の、言うならば知識とでも申しましょうか。言うならば、ここでは合楽理念と言う事になりましょうか。私共の過去についてきておる我情我欲とでも言えるでしょう。又はそれが常識であるとか観念と言ったようなものを一遍かなぐり捨てて、もう本当に、あのう子供になったような心持ちで教えを頂くと。だから、その教えそのものが全部こうこちらへ入ってくるという感じなんですよ、ね。そこから言うなら御神徳が受けられる。
 久留米の初代が頂かれたという話を昨日お月次祭の時さして頂きましたように、確かに生まれて来た時に、布一寸だっても握って来たという者はおらん。そういう生まれて来た時の、そのままの姿になるという事。そういう心の状態で生活をさして頂く、教えに基づく生き方をさして貰うのが本当の信心生活だと言うふに神様が久留米の初代に教えられたと言う事でございますが、成程こういうところまで心の状態が進んでまいりましたら、御神徳を受けられるだろうと思いますね。やはり御神徳を受けるという事は、言うならそういう事ですから、私共が様々な問題に直面しました時に、もう兎に角親先生まかせ、親先生が言いなさる通りにさしてもらおうというような心の状態が、その事のおかげになる訳が分かるような気がします。ね、そん時そん時でもよいから、言うなら神様まかせになるという事。どうして、しょうがない、あなたにお任せしますという生き方は、言うなら、まあ白紙の状態という事。お任せしながら、それを任せきってない心の状態がおかげ、言うならばおかげにもならない。お徳にもならにという事になりましょうね。なかなかね、そういう白紙の状態になかなかなれんのです、やっぱ。
 これは、私がまだ修行中の時分に福岡からこちらへ、善導寺ですから親教会が、月次祭たんびに帰って来なけりゃならん。ところが善導寺教会の或る総代さんにお金を借っとる。もう月次祭たんびんに、その、まあ督促を受けるのです。それでもう何回も何回も嘘になっとりますから、もうこんだ、どうかいくらか持って行かなきゃ、その総代さんにも会われないというように、まあ状態の時でした。どんなに思うても、電車であのう甘木行きの電車に乗ってから大城までやって来るんです。ね、それで、大城から歩いて、こう来る訳ですけれども、どう思うても今度の月次祭ばかりにはね、行けそうにもない。又、あの人と会わねばならん。どういうて断り言うてよいか分からない。神様にお願いをしましたら、その頃は神様にいろいろお知らせを頂いておる時でしたから、どげん思うても今日は、三井教会に行かれません。たら、神様から、そんなら三井教会の代りに本郷の教会に参れと頂いたんです。私は本郷の教会と。近くの教会ですけれども、どこにあるか知りませんでした。だから本郷まで、いわゆる大城で降りらんならんのを本郷まで参りまして降りた。どちらへ行ったら本郷の教会があるか、神様にお伺いしお伺いし参りましたら、何かこう田圃の中の畔道のような所に入ってしもうて、そして行き当たりのそこに大きな堀があって、もう向こうさいにゃいけんという所に出たんです。それから又神様にお願いさして頂いた時に頂きました事がですね、死んだ気になれと神様がおっしゃておられる。その死んだ気になると、言うならば、あのう徳も身に付くね、おかげも受けられるというような意味のお歌で頂いた事が、死んだ気で、何んじゃったかな「死んだ気で励め努めよ徳もつく」か「人も助かる・・・」何んとかと言う、一寸私は忘れましたが、そういう歌を頂いたんです。不思議ですね、神様からそういう風に頂きましたら腹が決まった。成程死んだ気で行くんだと。
 勿論教会に参りましたら、お月次祭も半ばでした。それからお月次祭がすんで、私はこう、その時分は、あのう神様に御挨拶するまでは、人にもの言わんという、あれでした。月次祭で皆帰られる。そうすると、その総代さんは、私が来たもんだから火鉢の前でちゃんと私を待ち構えておられます。ほら、私はこう一番前に来てから、お月次祭がすんでも一生懸命御祈念をするんです。と、後でその総代さんが煙草のみながら待っとるよと言わんばっかりに、カチカチち火鉢の淵に、その煙草のキセルをガチガチいわせよんなさるですもん。私は、ここでもう貧乏ゆるぎもせんもん。ちゃんと御祈念しよる。とうとう待ちくたびぶれて帰りなさったなあと思うてから、御祈念を止めた。そういうような一つの苦肉の策とでも言うでしょうかね、そういう所も通りました。
 もう何がなんと言うて借金の断り位辛い事はないですね。確かに昔の人がね、貧より辛いものはないと言われたが、確かにそうですバイ。けれどもね、不思議にそれが死んだ気になるとでけるんです。もう善導寺の方にゃ足や向けられん程しの事でしたけれども、おかげを頂いてまいりました。
 そういう心が私は白紙というのじゃないでしょうか。白紙になると言う事は、だからそのように、言わば難しい事であります。神様まかせに仕りますと言うのですからね。どげん思うても右の方にゃ行かれない。けれども神様が右の方じゃと言われるから死んだ気で行くという。その時に、私や心に感ずる心をね、いわゆる神様に任せきる。言うならば死んだ気でと言う事だと思うです。
 今日は、私、信心には、まあお参りをする、お願いをする、おかげを頂くという時にゃ、そりゃそれはどんなでもよいけれども、いよいよ御神徳を受けるというような信心は、やはり一遍ここを通らなければ出来ない。ね、信心すれば誰でも御神徳が受けられると、ここにあるが、ならそういう信ずると言うたら、それだけ信ずる心というものが、これにでけてくると、いつでもどんな場合でも白紙になれれるという、どんな場合でも神様、それこそ火の中水の中でも、神様が火の中水の中とおっしゃるなら、それにでも飛び込んでいけれる程しの心をままよ。ままよとは死んでもままよの事という事になってくるんじゃないでしょうか。
 今から考えますと、もう大変まあ辛い事でしたけれども、今から考えますと、何んか面白いような感じが致します。ね、別に相手が命を取ろうと言う訳でもないのですから。けども相手の顔を見るのが辛いですね。だからこっちは死んだ気で行くという生き方をね、いよいよの時にゃ、いわゆる白紙になる。その手始め、手立てとしてです、今まで自分の持っておった常識とか学問とか観念というものを、かなぐり捨てていく稽古をさせて頂かにゃならんと言う事ですよね。どうぞ。